死産から9年。二人の子どもを育てながら辿った、Dさんの出産体験

『女神たちのタペストリー~あなたの出産体験おしえてください』

今回の女神はDさんです。
9年前、Dさんの第一子である男の子は、分娩中にお空に還ってゆきました。
その後、二人の女の子を、帝王切開で出産しました。

死産、そして二人の子どもの出産・子育てをしてきたこの9年。
記憶がまばらで、すごく覚えていることと、まったく覚えていないことがあるそうですが、
その体験の過程と、今の心境について語っていただきました。
「」の中は、Dさんが使った言葉やセリフを、なるべく、そのまま使用しています。

Dさんは、同じような経験をされた方のために、何か少しでも役に立ちたいと思い、今回インタビューに協力していただけました。
もし、この記事を読んで、Dさんにお話しを聞いてみたい、相談してみたい、と思われた方は、私に連絡(fujisawa-counseling@f-maternal.site)をいただければ、Dさんにおつなぎします。

「一人じゃないよ」。
このメッセージとともに、Dさんのタペストリーをご紹介します。

目次

【ケース2 Dさん】

目次
(1)第一子の死産
(2)お空に還った後のこと
(3)意味をみいだす
(4)第二子、第三子の出産と子育て
(5)“家族の経験”になってからの悩み
(6)死産から9年たち、変わること・変わらないこと

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(1)第一子の死産

妊娠中は、何も問題がなかった。少し体重が増えすぎていたくらいで、妊娠糖尿病でも、逆子でもなく、経過は順調だった。

陣痛がはじまり、個人病院の産婦人科へ。破水してから分娩台にのぼった。

Dさんは、もともと過呼吸があった。自分のキャパシティーを超えて、「いっぱいいっぱい」になると、過呼吸が出る。陣痛の痛みから、過呼吸になり、息が苦しくなった。
何度もいきむが、うまくいきむことができなかった。

赤ちゃんは約3800グラムの大きな子で、なかなか下に降りてこなかった。
赤ちゃんの心拍が急に下がった。
それまで、助産師さん二人がついていたが、急遽先生を呼んだ。
「頑張ったつもりなんですけど、どうやっていきんだらいいのか、わからなくて」。

会陰を切開し、吸引をし、助産師さんが上にまたがってお腹を押し、その時にできることは全部してもらったと思う。それでも出てこなかった。

その時、Dさんは「もう頑張れない」と思った。
たぶん、パニックになっていたんだと思う。
最後の最後に、先生が「あんたが頑張らな、赤ちゃんが死んでしまう」と言った。
この言葉を、Dさんはいまだに忘れることができない。
そして、自分の中で最大限に頑張り、やっと出てきた時には、赤ちゃんは息をしていなかった。

分娩台の上で、赤ちゃんを横に置いてもらった時、「なんで泣かない?この子」と思った。その時、涙が出てこなくて「私はすごい残酷な母親だ」と思った。

横にいる赤ちゃんが、だんだん冷たくなっていく。でも、泣けない。
何が起こっているのか、わからない。
「無(む)、なんです、その時」。頭が、気持ちがついていかない。

そこから、火葬までの手続きは、トントンと進んだ。
その病院では、「悪気はないんでしょうけど」、赤ちゃんとの時間をゆっくり取れなかった。

後になって、火葬までの間に、亡くなった赤ちゃんに、おっぱいをあげたり、たくさん抱っこをしたり、家に連れて帰ったりすることができる病院もある、
そのようなグリーフ・ケア(悲嘆のケア)があることを知り、後悔することになる。

夫が、火葬の手続きはすべてしてくれた。「私は、話を聞いても、言葉が流れていくだけっていう感じで」。ただ、Dさんのお腹を押した助産師さんが、一緒に泣いてくれたことは、とても覚えている。

夜中の3時に生まれ、翌日には、棺桶が届いた。
病院が用意した服を着せ、お花とミルクを一緒に棺桶に入れた。

Dさん自身が、赤ちゃんを抱っこできたのは、棺桶に入れる直前の一回だけだった。
夫は、一度も抱っこできず、そのことは、いまだに悔やんでいる。
そして、お別れに、呼びたい親族を呼ぶように、病院の人から言われた。

両家の親族は、来ることができる人は、みんな来てくれた。
看護師をしている夫の姉から、
「写真を撮りなさい、絶対に後悔するから」と言われ、写真を撮った。
「これは、本当によかったなって」。

たくさんの人の死を見てきた人だからこそのアドバイスに、感謝している。
幸い、親族は温かく理解のある人たちばかりで、
よく流産・死産の体験者が言う「“次があるから、若いから大丈夫”と言われて傷つく」ようなことはなかった。

そこからは、「あっという間に、つれていかれた感じ」。

死産ということが、あるなんて全く思いもよらなかった。
無事に生まれてくることが当たり前だという感覚すらないくらい、生まれてくるのが当然だと思っていた。今から思えば、もっと一緒に過ごしたいとか、連れて帰りたいとか、自分で言えばよかったのであろうが、頭が回らなかった。

病院を恨んでいるわけではない。
しかし、「もうちょっと対応してくれる病院が増えればいいなって」思う。
もうちょっと、一緒に過ごす時間が欲しかった。

(2)お空に還った後のこと

産後、二日目に退院した。
三日目になり、自宅に戻ってから、やっと感情が出てきた。
なかなか、悲しみを感じない自分に、「すんごい残酷やなって。私って、母親になる資格がなかったんだな」と思った。

妊娠中は、赤ちゃんのために、たばこをやめていた。
退院してからしばらくは、「泣きながらタバコをすっているイメージしかない」。
身体のしんどさは、まったく覚えていない。
つけているだけのテレビに、マイケルジャクソンが亡くなったニュースが流れていたことを、すごく覚えている。

退院してから、すぐにしたことは、原因を探すために、本を買いあさること。

携帯電話で、ネット上にある体験談や、医学的な情報を探すも、情報の量が少ない。
大きな本屋へ行き、関連する本を探すも、やっぱり原因がわかる情報は見つからない。
本屋さんで、死産に関する本は、「妊娠や出産のコーナーじゃなくて、医療のところにあるんだー」という驚き。出産の一般書と、同じところには置けないだろうな、と妙に納得する。

「すんごい色々(情報を)みたけど、」分娩中に亡くなるケースは、極めて稀だった。

「なぜ帝王切開をしてくれなかったのか」と思った。
病院の先生に尋ねたところ、帝王切開できる状況ではなかった、とのこと。
病名は、『産道強靭症(さんどうきょうじんしょう)』となっていた。
お医者さんが、帝王切開できなかったと言うのであれば、そう思うしかない。

原因探しをする日々を送ってから以降の、記憶がない。
希望がなく、生きているのか、いないのか、わからない生活になった。
Dさんは、妊娠中に仕事をやめていたので、復職という選択肢はなかった。

心配した旦那さんが、仕事を失う覚悟で3か月の休みを取ってくれた。
そして、行先を決めない1週間の旅行に出た。出産から、2か月たったころだった。

そして、引っ越しすることを決意する。
妊娠中に、ゆっくり、一緒に歩いた道はもう歩けなかった。
産んだ病院も近かった。スーパーも、すべてが「お腹にいた時の場所」だった。
「もうここには居られない、歩けない、ダメだ」と思った。

急遽、夫の実家がある、今住んでいる市へと引っ越す。
そこは、開拓されたばかりの町で、広いグランドや公園があり、のんびりしているように見えた。「ゆっくり過ごすには、ちょうどいい」と思えた。

(3)意味を見いだす

原因探しをする中で、同じような体験をした人の話を知るにつけ、
この体験の「意味を見つけなくちゃいけない」と思った。
原因と同時に、「この子は、私に何を教えてくれているのか」も、探していた。

まず思ったのは、「命の大切さとか、周りの人の温かさを、あの子は私に知らせてくれた」ということ。

それまで、Dさんは、すぐに逃げたい、死にたいと思い、向き合うべきことに向き合うことができない、「かなり不安定な人」だった。人間関係では、仲良くなった人とでも、距離を置きながら、お付き合いをする感じだった。

この体験を通じで、一番身に染みたのが、周りの人の温かさだった。
「距離を置く必要はないよって。周りの人は、もっと私を受け入れようとしてくれているよ。命を大事にしなさい」、と教えてくれた。

この子が、命をもって、教えてくれたのかと思うと、つらいことがあっても、死にたいとは自然に思わなくなった。
でも、命をもってまで、教えてくれないでよかったとも、正直に思う。帰ってきてほしい。

一つ、後悔していることがある。
それは、妊娠中の後期に、赤ちゃんが生まれることで、旦那さんと二人の時間がなくなることに、「チーン」と落ち込んでいたこと。
「最低な感覚」で、こんなことを思ったので、赤ちゃんが「バイバイ」と、お空へ行ってしまったのではないか。

こんな後悔がある一方で、産婦人科医の池川明先生の本に救われた側面もある。
「赤ちゃんは、ちゃんとお母さんとお父さんを選んできて、時間は短かったとしても、自分で決めてくる」と書いてあった。
本当かどうか、確かめようのないことであるが、今でもこれを信じている。
後悔と救われる思いの、入り混じった気持ちがある。

(4)第二子、第三子の出産と子育て

静かな町に引っ越しをして間もなく、夫が仕事に復帰することに、落ち込んでいた。
そこで、精神科クリニックの、カウンセリングを受けることにした。
カウンセリングを受け始めて間もなく、第二子を妊娠した。

お腹が大きくなってきて、カウンセリングに通うことが単純にしんどくなったことと、話すことで、逆に気持ちが不安定になることから、半年ほどで、カウンセリングは中断した。

第二子の妊娠中は、「この子も離れちゃうんじゃないか」と、恐怖しかなかった。
月に一回の検診の間が、とても長く感じられた。
次の子がほしい、とは思っていたが、「次に生まれてきた子は、あの子じゃない」と、複雑な気持ちであった。

そして、新居の近くにある、周産期医療の整った大きな病院を受診した。

そこの先生に事情を話したところ、最初から帝王切開を提案してもらえた。
そして、帝王切開を選んだ。

それまで、逆子などの医療的な理由がないと帝王切開できないと思っていたが、普通分娩が怖いという精神的な理由でも、帝王切開をしてもらえることを知った。

Dさんは、19歳の時に、卵巣嚢腫で卵巣を一つとる手術をしていたので、帝王切開でお腹に傷がつくことは、全然気にならなかった。

いざ、帝王切開がはじまると、怖くて仕方がなかった。
周囲に、たくさんの先生がいたので、「死産を経験した私だから、こんなにたくさんの人かいるの?」と戸惑い、不安を感じた。一方、人がたくさんいることの安心感もあった。
(のちに、帝王切開の場面で、医療者が多いのは、この病院では普通であることがわかる。)

原因を何年も探したけど、わからなかった。原因がわかったら、そうならないように、努力できるのに。
帝王切開中に感じていたのは、祈るしかない無力な自分。
「どうしようもないことがあるんやなって」。

そんな恐怖や不安と戦った、第二子の出産だった。
そして、産声をあげてくれた時の、「すごーい安心感」。

第三子も、同じ病院で、帝王切開で出産した。
第三子の時も怖かったが、第二子が無事に生まれてきてくれたことで、緊張や不安はゆるみ、「落ち着いて出産できました」。

長女と次女の育児のなかで、子どもが危険な目に合うことに過剰に心配する時期があった。

本当は、『はじめてのおつかい』のような、一人で新しいことに挑戦する経験もさせてあげたい。しかし、車が多い、変質者がでたらどうしようと不安で、子どもの手を放すことができない。「この子までいなくなったら、もう私たぶん無理だ」と思っていた。

Dさんは、3冊の母子手帳を持っている。
一冊は、お空に還った長男のもの。後の二冊は、長女と次女のものだ。

母子手帳には、自分で第何子かを記入する欄がある。
長女は、社会的には第一子扱いになるのであるが、母子手帳には「第二子」と記入した。
長女の母子手帳に、「第一子」と記入することに、すごく違和感を感じたのを覚えている。
「意地で書いたんでしょうね。紙上では、上の子がいないことになる。なかったことに、してほしくない。どこかに、この子のことを知ってほしい気持ちがあるんでしょうね。」

次女の母子手帳には、第何子かは、書いていない。
「意地が続いていれば、第三子って書いたでしょうけど。落ち着いてきていると言えばそうなんでしょうけど、だぶん迷って、書いていないんです。頑固な私は、書いていない。」

子育てをしていると、予防接種や、検診の際に、家族構成や第何子かを、紙に書くことはたびたびある。
そのたびに、違和感と、「意地」が顔を出してきた。

(5)“家族の経験”になってからの悩み

Dさんは、長女と次女に、お兄ちゃんがいたことを「隠すべきではない」と考え、伝えてきた。寝る前に、一緒に長男の写真に手を合わせて、声をかけている。そのため、娘さんたちは、「5人家族」という感覚が、幼いころからあったようだ。

長女が幼稚園のころ。
幼稚園の先生やお友達に、長女が「5人家族である」とか、「お兄ちゃんがいる」と、周りに話し始めた。

幼稚園の先生が、まだDさんの事情を知らない時、たまたま長女のクラスに、長男と同じ名前の子がいた。
そして、長女が、「○○ちゃんがお空に行っちゃった」と発言をしたのを先生が聞き、
クラスメイトのことを言っていると勘違いしたい先生は、
「お空に行ったとはどういう意味がわかっているのか」と、長女をきつく叱ったことがあった。
懇談でこの話題になり、先生に事情を話した。そして、幼稚園の先生たち全員に共有してもらうことになったのであるが、長女には「ごめんね」と、感じた。

「こういうことも、あるのだな」と、死産が、家族の経験になっているからこそ、新たな悩みが生まれることを知った。

長女が小学校にあがってからも、先生や親しい友人には、「お兄ちゃんがいると言うかもしれないが、さらっと流してほしい」と伝えてきた。

しかし、Dさんは自分の体験を、どこまで、誰に、話すべきか迷うことがある。

特に、これから妊娠・出産を経験するであろう女性に、死産について話すことで、不安の種をまくことにならないか、陣痛中にDさんのエピソードを思い出して、お産がおかしくならないか、それが心配である。

Dさんが体験を打ち明けた相手(幼稚園、学校の先生や、親戚、友人)が妊娠をすると、「ごめんなさい、どうか私のことを思い出しませんように。
どうか無事に生まれてきますように。分娩中に、私の話を思い出して、何かあったらどうしよう。何かあったら、私のせいだ。」と、感じる。

唯一、Dさんが他人への影響を気にせず、話せて泣ける場は、体験者の集まりである。
グリーフ・ケアに関わっている助産師さんなどに話すことも、気が楽になるのであるが、それでも「女の人すべてに、私のことを思い出しませんように」、と祈る。

(6)死産から9年たち、変わること・変わらないこと

死産した直後は、すべての人に、「ごめんなさい」しかなかった。
息子には、ちゃんと産んであげられなくて、「ごめんなさい」。
祖父母、親戚には、孫を元気に産んであげられなくて、「ごめんなさい」。

9年たって、極端に泣くことは少なくなった。思い出すことも、少なくなってきた。
しかし、「なんででしょうね。どうしようもなく、帰ってきてほしくなったりします」。

悲しみが癒えるには時間が経つしかない、と思っていた。
しかし、義母の知り合いの、子どもを亡くしたおばあちゃんは、40年経っても、命日になると泣くという話を聞いた。「母親って、そういうものなのかな」。

よく壁を乗り越えるとか、傷が癒えるとかいうが、本当にそうなのかな、と思う。
「乗り越えられるわけがない出来事なんじゃないのかなって。」
「その亊とともに、どうやって生きていくかなんじゃないかって、9年たって考えるようになりました」。

今、次女の幼稚園で知り合った、仲の良いママ友に、男の子の赤ちゃんが数名いる。
その赤ちゃんを見て、本当にかわいいと感じるし、抱っこさせてもらうこともある。
だが、赤ちゃんと関わってから家に帰ると、「チーン」となる。

なぜ、しんどくなってしまうのか、自分でもわからない。
無意識の引き出しが、なんらかのきっかけで、開いてしまう。
きれいな感情ではないのは確か。うらやましいだけではない。
「間違いなく、持ってはいけない感情、悪い感情な気がする。」

しかし、ママ友とのお付き合いをやめるわけにもいかない。
顔を合わさなくて済む土日になると、ほっとする。

インタビューを行った日はちょうど長男の誕生日、命日に近い日であった。
この季節になると、勝手に「もう〇年なんだな」と、思い出すことが多くなる。

「9年たつと、よけいに言えなくなったっていうのが、新しい発見。
世の中には、子どもが欲しくても、子どもを持てない人がいるのに、自己中な私は、いろんな悩みが出てくるんなやって。これは、想定外でした」。

心の底にある、時間が経っても変わらない悲しみや、「ごめんなさい」の気持ち。
一方で、家族の変化や成長とともに、悩みのポイントは変わってくる。

インタビューの最後に、Dさんが一貫して変わらない、二点の思いについて、教えてくれた。

一つ目は、死産の体験者さんが多く語る、「なぜ私だけがこんな思いをするのか?」という疑問は、持ったことがない。
「人間として問題のある自分だから、起こるべくして起こった」という感覚がある。

二つ目は、お空に還った息子に対して、「あんなことが無ければよかった」とは思ったことはない。
お空に還ってしまったが、息子に会えてよかった。
いつでも、息子に伝えたいことは、「私と旦那さんのところに来てくれてありがとう。ごめんね。愛している」。

【編集後記】

Dさんのインタビューをさせてもらい、感じたこと、思うことがたくさんありました。

Dさんの語りを、できるだけそのまま受け止め、表現したいと思いながら、書きました。

流産・死産を体験した女性や家族を、理解しようとする人が、世の中に増えたらいいなと思っています。
そして、悲しみや罪悪感・無力感を感じている体験者さんと、“一緒に居ようとする”私でありたい。

無力だけど、無力じゃない。自分が無力であることを通じて、体験者の方と、つながることができるのではないかと、思います。

死産の体験から9年が経った方の、変遷と今について、語っていただいているこのインタビューは、とても貴重なのではないかと思います。

Dさんの、思い、祈りが、万里を馳せて、必要な方に届きますように。

インタビュー協力者募集中!

このインタビュー企画では、さまざまな女性に出産体験を語っていただいています。

臨床心理士の藤澤真莉が、あなたと一緒に、出産というポイントで織りなす人生のタペストリー=物語を、紡ぎます。

・ご自身の出産を振り返りたい方

・話すことで、出産体験にまとまりを持たせたい方

ぜひ、お話を聞かせてください!

年齢も、子どもの数も、関係ありません。

病院で普通のお産だったから・・・とかも関係ありません。

流産・死産も出産ととらえています。

出産と子育てを通して、あなたの感じたこと、体験したことをお聞きしたいのです。

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産前・産後専門の心理カウンセラー・臨床心理士

ふじさわマターナルカウンセリングルーム

藤澤真莉

 

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